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機動戦士ガンダム MS IGLOO 第3話「軌道上に幻影は疾(はし)る」鑑賞記

順調にシリーズを鑑賞し続けております。呑んだくれです。色々と周りの状況が楽をさせてくれませんががんばります。

さて、ガンダムといえばロボットものの代名詞的存在になっていますが、ここまで長くファンの心を掴んで離さないのにはやっぱりちゃんとした理由があると思います。それはもちろんかっこいいモビルスーツ、人間的魅力に溢れたキャラクター、武器や時代の設定の細かさなどなのでしょうが、アニメだからといって戦争というものをヒロイズムだけで描かないというリアリズムの追求(当然アニメなのでヒロイズムありきですが、それだけでなくね)というところにあるのでしょう。
で、この「MS IGLOO」という作品ではそのリアリズムにプラスして根底にあるのは日本人がもっとも感情移入できるとされる「滅びの美学」を表現しているところにあるのではないでしょうか。
日本人というのは―特にかつての戦争で負けた記憶が―非体験世代でも遺伝子の中に組み込まれているかのように「負けゆく者の姿」に感動を受ける性分の人が多いようです。ですからガンダム好きにはジオン好きが多いのだと思うのです。一年戦争という戦争の結果を知っているからこそ、その“結果”を迎えるまでにもがく姿に感情移入してしまうのだと思うのです。
そしてそのジオン好きな人々の心の隙間を埋めるような作品がこの「MS IGLOO」シリーズではないかと思うのです。

さて、この第3話ではシリーズ史上初めて603部隊はMSの評価試験を行なうことになります。思えばガンダムというのは基本的にモビルスーツというロボットの登場するロボットアニメであるはずだったのですが、今作の主人公である603部隊がMSを使用するのは今回が初めてだったりします。でも、あんまり違和感を覚えなかったのはやはりストーリーと演出がそうさせるのだろうなと改めて痛感したのです。
颯爽と登場する今回の主役ZIMMAD社のMSヅダとそのパイロット、ジャン・リュック・デュバル少佐。その性能と戦果に喚起に包まれるヨーツンヘイムの乗組員たち。皆がこの”新型”MSの性能と今後の活躍を確信していました。しかし、試験中の不慮の事故からヅダの真実に気付いてしまうマイ。ちょうど時を同じくして連邦が流した放送によってヅダの真実が白日のもとにさらされてしまいます。
ここから語られるジオニックとツィマッドの企業間の確執などそこらのお子ちゃまにはちと難しい話が展開されます。これまでのガンダムシリーズでもアナハイムエレクトロニクス社とか企業は出てきますが、この話で出てくるようなディープな企業間確執を話の根幹に持ってきたのはやはりテレビ作品ではないからでしょうか?自らが開発した兵器を売るためなら、敵対企業の情報を得意先の敵対組織へもリークするこのあざとさ。それに絡む人間の悲喜こもごも。ここまで真正面から描いたのは映像作品としておそらくシリーズ初でしょう。
そして直後に起きるオデッサからの敗残兵の救出作戦。地球仕様のJ型のザクが無残にも連邦軍のボールに撃墜されていく様を見て、ヨーツンヘイムは試験中止、廃棄目前となったヅダを再び戦線に投入(試験を再開)します。パイロットにはデュバル少佐、ワシヤ中尉、そしてこれまで決して前線に立つことのなかったキャディラック特務大尉も自ら出撃します。これまで嫌われ役だったキャラが実は人情に厚いところを見せる、というのも日本人の好きなストーリーですね。まぁこの場合は不様にやられていく友軍を見捨てては置けないという強い責任感があってのことでしょうけど。
次々とボールを駆逐していく603試験隊に襲い掛かるは投入されたばかりの新型MSジム。救出活動を続けるワシヤ機、キャディラック機を守るため、そしてヅダと己の名誉を守るため、ジムの相手を一手に引き受けるデュバル少佐。ヅダのブースターをフルスロットルでジムを引き離し、ジムのエンジンをオーバーヒートさせ行動不能に陥れていく。そして当然訪れるヅダのエンジン崩壊。しかしデュバル少佐の顔には後悔は感じられなかった。これぞ仕事をやり遂げた男の顔。親の庇護の元でだらだら過ごしている学生どもには(失礼)決して分からないこの達成感。今回の話は全てこのデュバル少佐の顔が物語っていると思います。
たとえ人に何と言われようと自分の仕事に自信を持ちやり遂げる。ジャンルこそ違えど仕事に携わるものとして非常に共感をもてます。

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