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後悔

リリー・フランキー著「東京タワー」すごいですね。2時間ドラマ、月9で連続ドラマ化、そして映画化ですか。
主人公が大泉洋、速水もこみち、オダギリジョーと全く違う役者が演じているのがまた愉快ですが。

この小説(映画でもドラマでも一緒ですが)を見るたびに思うのが自分が親を失ったときにはどういう感情を抱くのだろうということです。正直あれだけ感情を露わに出来るのだろうかと不安になるのです。もちろん実際そうなってみないと分かりませんが。そんなに早くその時は来なくてもいいのですが。

そんなわけで俺の両親は健在です。でも祖父母の代になると父方の祖父しか存命ではありません。母方の祖父は俺が生まれる前に、そして祖母は俺が小学校中学年の頃に亡くなってしまいました。もはやうっすらとしか記憶にありません。あの頃はあんなに大好きだったのになぁ…そう思うと人間の記憶って、子供の感情って残酷だなと思うのですが。
だからでしょうか、今回のコラムではそんな自分が許せないのか、記憶が薄れるのが怖いのか、父方の祖母がなくなったときの話を書きとどめておこうと思います。非常に自分勝手な内容ですが気にしないで下さい。あ、いつもか。

うちの両親は秋田県の出身です。親父の転勤で広島県に住んではや30年近く。俺には広島での記憶しかありません。そんなわけで帰省となると一大事です。秋田県でも山奥の方にいる祖父母に会いに行くためには色んな交通手段を乗り継いで軽く半日はかかります。今の俺たちならともかく、ガキンチョの俺や弟を連れての長旅は両親にとって非常に大仕事だったことでしょう。こういうことも自分が親になって初めて分かるものです。
とにかく、そういう理由で秋田へ行くのは学校が長期の休みになる夏休みくらいのものでした。ですが、その夏休みの秋田旅行が俺にとっては非常に楽しみだったのです。祖父母のことが大好きでした。もちろんどちらの、ということも無く父方、母方両方でした。ちなみに父方の祖父母の家と母方の祖父母の家は徒歩にして数百メートルしか離れておらず、どちらの家に泊まっても簡単に行き来できるので大変楽しかったことを覚えています。前述したように母方の祖母が亡くなってしまい行き来自体が無くなってしまったのですが。

子供なんてバカなもので(俺だけかもしれないですが)“今”というやつは永遠に続くものだと思ってます。母方の祖母が亡くなったときにまだガキだった俺は人が死ぬということに無関心だったのかもしれません。祖父母はずっといるものだと思ってました。中学生になると俺は部活だ何だと理由をつけて夏休みの帰省も行かなくなってしまいました。
高校一年の春休み、親父が転勤で秋田に行くことになったとき向こうの高校の編入試験を受けさせられました。俺は一人ででも広島に残るつもりでした。そんなわけでその時は祖父母にロクに会いもせず、編入試験の解答用紙を白紙で提出して親父を泣かせ、ブスくれたまま親父一人を単身赴任という形で秋田へ行かせました。親父が単身赴任から帰ってきたのは俺が大学3年の春でした。
高校卒業後、大学入学までの春休みに親父の元へ遊びに行きました。その頃には少し親父と和解してました。両親が秋田ということで親類一同が東北地方にいるので挨拶回りをしたので祖父母の家には一泊程度しかしませんでした。後から聞けば、その頃から祖母は病気と戦っていたそうでした。

大学、そして就職、フリーターを経て再就職、結婚と俺を巡る環境は激変しました。10年近い月日が経ちました。仕事が忙しくとてもじゃないですが帰省できるような状態ではありませんでした。子供が生まれても電話や写真、手紙でしか祖父母には報告できませんでした。直接会いたいなとは思っていましたが叶わぬ願いでした。先にも書いたように行くだけで約半日、今よりもっと小さいうちのガキどもを連れて行くことを考えると時間も体力も精神力もついていくかどうか。移動日を一日として最低3日以上の休みを帰省という理由だけで取れるような会社ではなかったですし自分の店がそんな悠長な状態ではありませんでした。

そして3年前の3月です。
両親から祖母の容態が良くないと聞きました。親父は出張や週末のたびに秋田へ行っていました。母から今週末くらいがヤマだからと一度秋田へ行こうということで無理を言って休みを取ろうとしましたが、何とか持ち直したということで休みの申請を取り消しました。しかしその3日後、仕事中に弟から祖母が亡くなったという電話がありました。上司に代わりに店を見てもらうように頼み、上司が会社にかけ合ってくれて一週間の休みをもらいました。次の日の朝、母と弟とともに広島空港から秋田へ向かって発ちました。その行きしなには不思議と冷静でした。乗換えが多かったからかもしれないし空港で買った綿矢りさの「蹴りたい背中」を読んでいたからかもしれません。
3月も下旬だというのに秋田県北部はまだまだ雪が残っており、広島の陽気が嘘みたいな天候でした。
最寄の駅からタクシーに乗り祖父母の家に着きました。朝早くに広島を発ったにもかかわらず、時間は既に20時を回っていました。約10年振りに祖父母の家を見た瞬間色々な記憶が蘇ってきました。俺はガキの頃この玄関をくぐることを毎年楽しみにしてたんだよなとか少し離れた商店街にあるおもちゃ屋で買ってもらったプラモデルのこととか、決して俺たち孫には怒らなかった祖母の、いや婆ちゃんの笑顔とか。
亡骸と対面したときはまだ冷静でいられました。こういうときにも意外と普通に対処できるもんだなとか思ってました。俺は最近撮ってまだ送っていなかった俺と嫁さんと子供たちが写った写真を持ってきたことを思い出しました。カバンからその写真を取り出し婆ちゃんの枕元に置いた瞬間、自分でも驚くほど涙が溢れてきました。その時の感情はなんだったんでしょうか。今でもよく分かりませんが、悔しくて情けなくて自分の馬鹿さ加減に呆れて申し訳なくて…そんな感情がごちゃ混ぜになったような…婆ちゃんの亡骸の安置してある近くにはテーブルが置かれ約10年ぶりに再会した従兄弟と叔父さん夫婦が座っていましたし、弟がいて母がいて親父がいて祖父がいましたが、そんなこともお構い無しに号泣してしまいました。祖父が俺の肩を抱き寄せながら「ありがとう」と言ってくれました。親父が慰めるような優しい声で「何泣いてるんだ」とか声をかけてくれました。ですが涙は止まりませんでした。俺はずっと婆ちゃんに向かって「ごめんなさい」を連呼していました。直接結婚や子供が生まれたことを報告できなくてごめんなさい、ずっと俺に会いたがっていてくれたのに会いに来なくてごめんなさいと。
その時に泣ききったからでしょうか、通夜、葬式の間は泣きそうになることはあっても泣くことはありませんでした。俺たちの前では決して涙を見せなかった親父の姿に凛としたものを感じました。婆ちゃんの長男として毅然と振舞う親父を見てその長男である俺もしっかりいなければいけないという今考えても非常にくだらない見栄でしたが、なんとか泣くことなく行事をこなすことが出来ました。

そして秋田を発つ日になりました。母方の叔父に空港まで車で送ってもらいました。仕事が控えていたのは俺だけで、親父たちは翌日の便で帰ることになっていました。離陸時間が近づき、俺は機内のFMで音楽でも聴きながら寝ようと思ってヘッドホンを装着しました。そして離陸のときちょうど一青拗の「ハナミズキ」がかかっていました。そして機体が浮き上がる瞬間、また俺は泣いていました。理由はよく分かりませんが込み上げてくるものを抑えきることはできませんでした。直前に借りていた毛布を顔に押し当てて人に見られないようにするのが精一杯でした。

数年が経ち、結局あれから一度も祖父に嫁さんと子供を直接会わせてやれていない自分がいます。転職して時間的余裕はあの頃よりもあります。交通費さえ何とか工面すれば会いにいけるのに。
もう二度とあんな後悔はしたくないから近いうちに秋田へ行きたいと思ってます。その時は婆ちゃんの墓に笑顔で報告しに行きたいと思ってます。

以上、ホントに書き殴りのような文章にお付き合いいただきましてありがとうございました。

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