
代打バカ一代
2006年シーズン終了と同時に広島カープファンにとって大きな意味を持つ二人の選手が現役選手としてユニフォームを脱ぎました。
その二人は同時期にカープの頼れる代打の切り札として長くファンに愛されてきました。
二人の名は浅井樹、町田公二郎。
左の浅井、右の町田は「他球団に行けばクリンナップが打てる」とまで評されるほど打ちまくりました。
試合終盤、負けている場面であってもチャンスの際には彼らさえ出てくれば何とかなる、といった期待を抱かせてくれる選手たちでした。
浅井樹選手は1989年ドラフト6位で広島入団(ちなみにこの年の4位で前田が指名されている)。1995年から代打の切り札として頭角を現し、主に代打としてシーズン3割5度、2000年シーズンには13本塁打を放ち、チームに無くてはならない左の強打者としてその名を轟かせました。
彼のトレードマークは投手側、つまり右腕のアンダーシャツを少しだけ捲り上げてまさに丸太の様と形容するにふさわしい腕をこれでもかと見せ付ける姿です。とにかく打席に入るだけで何かをしてくれそうな雰囲気を持ったすごい打者でした。
しかし、一塁の守備にはロペスなどの外国人選手が、そして外野には前田、緒方、金本というリーグを代表する屈指の外野陣が控えていたため、代打以外では一塁の守備固めとしての出場しか出来ませんでした。しかしそれに腐らず、一打席に自分の全てをかける代打業にプロとしての誇りを全てかけることとなったのです。その結果が通算代打率3割超という脅威の成績です。
そんな彼が代打中心の選手生活でやっと掴んだ主力選手としての証、FA権。それを彼は他球団に移るためでなく、ただ純粋に他球団から自分がどういう評価を得ているか、プロ選手としての当然の好奇心を満たすため、FA残留を球団に要請します。しかし、球団は不用意な年俸の高騰を防ぐため(一人にFA残留を許すと他の選手にもFA残留を認めなければならない)、それを認めませんでした。結局現在に至るまでFA宣言をしての残留をした選手は広島カープにはいません(唯一2006年シーズン終了後、黒田の他球団流出を避けるため球団側は譲歩の姿勢を示しましたが結局黒田は宣言せず残留)。
引退試合として用意された2006年最終戦、彼の最後の打席はピッチャーの足元を抜くセンター前ヒット。ベンチでその姿を見守った同期入団の前田は、普段クールと言われているその印象とはまったく別の、号泣で浅井を抱きしめたのでした。
そして町田公二郎選手は1991年ドラフト1位でカープに入団。1年目から4番を任されるなど「山本浩二2世」と称されるなど将来を期待される選手でした。しかしあまりにも期待されすぎたため、そこそこの成績であったにもかかわらず徐々にスタメンでの起用が無くなりいつしか代打の切り札として扱われるようになったのでした。浅井もそうですが、彼らは「代打の切り札」と呼ばれるのを好んではいませんでした。「プロ野球選手であるからにはスタメンで出てナンボ」というのが彼らの共通した考えだったそうです。
しかし町田は代打としてその才能を開花させるのです。代打で9打席連続出塁、初回先頭打者代打本塁打、通算代打満塁本塁打記録更新、通算代打本塁打セ・リーグ記録更新(何とその数20本!!)などなど…
それでも彼もまた浅井と同じように守備位置(彼の場合は守備技術も)などでスタメンは結局つかめないままでした。スタメン出場するために一塁・外野以外に二塁・三塁の守備練習も行いました(しかし二塁の守備は見られたものではありませんでしたがwww)。
そして2005年シーズンには「代打の神様」と称された八木の引退により右の代打が手薄になった阪神タイガースへと移籍。その理由からも判るとおり、スタメンとしてではなく「代打の切り札」として移籍していったのでした。
どちらの選手もスタメンという華やかな舞台こそ用意されませんでしたが、ここぞという場面で威圧感たっぷりに登場するシーンに我々ファンは胸を高鳴らせながら応援したものです。そして一振りで試合を決めていくあの姿…
もう見られないと思うとさびしい気持ちを隠すことが出来ません。両選手とも来期からはそれぞれ広島と阪神のコーチとしてまたユニホームに袖を通すとの事。一振りにかけるその精神を若い選手たちに伝えていってもらいたいものです。
本当に長い間お疲れ様でした。
浅井樹 通算成績 1070試合 523安打 52本塁打 259打点 41盗塁 打率.285
町田公二郎 通算成績 955試合 489安打 85本塁打 272打点 18盗塁 打率.251